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浜崎広■ 雑誌の死に方――“生き物”としての雑誌、その生態学

20060928zaasinohanazaki

明治・大正期の編集者は、雑誌を廃刊する行為は、志なかばの挫折と感じとっていた。〈無念の廃刊〉であった。

それはまた恥の意識を心の奥底にキズとして残させた。自分の力不足を恥じる――とでもいおうか。〈恥の廃刊〉が、以後続いて現れる。

そして戦後になると、廃刊の責任を他に転嫁するような〈言い訳廃刊〉や〈開きなおり廃刊〉が、あちこちでみられるようになる。

読者の無能さ、知性の欠如といった買う側に問題ありといった暴論は別にしても、人員不足や、編集費の切り詰め、時には会社上層部への不満など、うっ積した感情が赤裸々に出て、それが〈言い訳廃刊〉となる場合が多い。

さらに進んで、最近、よくみられるのが、〈無感情の廃刊〉。言い訳もなければ、開きなおりも感じられない、アッケラカンとした廃刊の言葉。(……)

もはや雑誌は“生き物”、“有機物”ではなく、壊れたモノをあっさり捨てるような“無機物”になってしまったのだろうか。

■ 雑誌の死に方――“生き物”としての雑誌、その生態学|浜崎広|出版ニュース社|199803月|ISBN4785200790

★★

《キャッチ・コピー》

雑誌とは、なんだろう? なぜ、突如消えてなくなるのか? 現代の巨大な、この“生き物”の生態を、死に、焦点をあて解剖する注目の書が、いま出た! 雑誌廃刊号追究の記録。

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